金沢「小松」

〜切るという仕事〜 第一弾 「小松」昆布締めのあら

食べ歩き ,

〜切るという仕事〜 第一弾
最近は、和食の料理人をみな板前と呼ぶが、本来板前という呼び名は、料理人の最高位にしか与えられない。
「板」は、俎板の「板」であり、その板の「前」に常にいるので、こう呼ばれていた。
つまり大勢の料理人がいる中でも、「板前」と称せられる人は、唯一人なのである。
仕事は、毎日の献立をつくることと、向附のお作りをつくるだけであるが、板前は、料理場の最高指揮者であった。
割烹の「割」が、包丁仕事を指すように、すべての料理は、大抵「切る」ことから始まる。
生の魚を料理に昇華させる「作り」という技法を重視する日本料理は、ことに包丁仕事を重視してきた。
今回金沢の二つの割烹で、その包丁仕事の凄みに打たれたのである。
一つは、三つ星の「小松」であった。
3種類のお造りの最初は、「あら」が出された。
そぎ切りした生のあらと角切りした昆布締めのあらである。
この昆布締めを一切れ食べた時、言葉を失った。
歯がむっちりとした肉体にめり込んでいくと、あらの滋味と昆布の旨味が相まって、舌に広がっていく。
二つの味は境目なく合一して、こちらの官能に甘えてくる。
その色香は、濃くもなければ淡くもない。
うかうかすると、するりと抜けゆく品がありながら、芯にしたたかな濃密がある。
それが噛むことによって次第に膨らみ、頂点に達したところで、すうっと立ち去る。
だが余韻は長く、いつまでも甘やかで、艶やかな味わいが口の中に留まっている。
なんというお造りだろう。
あまりのうまさに、ため息が出、絶望的になったほどである。
作る様を見ていると、棒状の昆布締めを4センチ弱ほどに切り、そこから同寸の細長い角切りに切り出していく。
おそらく、歯で噛んだ時に、最大限に旨味が上がるサイズを精妙に計算されていられるのだろう。
また一切れずつ触って締まり具合を確かめ、緩いものは脇にはねている。
全てが、ここだという理想の一点に向かって到達した、孤高がある。
これこそが板前仕事の極みだろう。
料理の美しさとは、こうした仕事にしか存在しない。
以下次号